昭和44年12月01日 朝の御理解



 御理解 第46節
 「痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ。」

 まさしくその通りです。痛いのが治ったのがありがたいのじゃない。何時もまめなのがありがたいとのぞ。ですから、こういう風にも言えると思うですね。痛いのが治ったという事も、これはありがたいことだと。けれども、何時もまめであるという事はもっともっとありがたいことだと。だから信心とはその、もっともっとありがたいという事に気付かせて頂くことだと思う。痛い痒い、様々な難儀を感じる。
 そこに信心のない人でもまぁ悲しい時の神頼み、と言う様な事から神様を拝んでみろうか、お頼みにいってみろうかという事になって、おかげを受ける。新たかな神様だというて、ありがたいと思う。これはまぁ誰しもが、分るのでございますけれども、ひとつの悟りとでも申しましょうか。まめであるという事、平穏無事であるという事。これはそれよりも、もっともっと有難いことであったんだと気付かせてもらう。
 私はここん所をですね、その本当に分らせて頂くという所から、いうなら神恩報謝の生活というか、有難いのがお礼の生活。甘木の初代ならば、信心はもう御礼がほとんどだと仰っておられるくらいですね。その御礼がほとんどであるという生活がね、真実まぁその通りですけれどもそれを実感として、是もっともっと有難いのだと分らせて頂くという事はです、やはり本当に心の目を開かなければとでも申しましょうか。
 本当に信心が本当に分かってこなければ、それが分らない。痛い痒いという事がおかげを頂いて治ると難儀な問題が解決すると。神様有り難うございますと。お礼をいう以上にです、その御礼を申し上げる以上に、今日も平穏でございました事が、無事でありましたことがです、もっともっと有り難いものになってくるという所に私は信心があると思う。私は今日、御理解第46節というこの始終禄という事を頂くんです。
 始終祿という事は、例えば昔の大名侍があの何石取りとかと申しますですね。あちらの殿様は10万石とか20万石かとこうお申します。それを祿とこう申しました。祿藩と。だから祿という事は、私はお徳という事だと思う。お互いが十石取りの、まぁおかげを頂いておるとするならばです、それを50石にも100石にもしていくというところにです、ね、執政がある。だからこの祿というのを、私は徳という風に頂いて。
 始終ということは、私は何時もという事普段平生の時。してみるとこの御理解は大した御理解だなぁと気付かせて頂いたんです。そこでならどういうところが、その大したことかというとです、痛いのが治ったのが有り難いのでない、何時もまめなのが有り難いのぞと。何時もまめであるという事はです痛い痒い、人間の難儀が救い助けられる。本当にあらたかな神様じゃというて、有り難いと思う。
 その実感よりももっともっと切実な実感をもってです、今日も平穏でありましたことが無事でありました事が、なんでもなかった事がです、有り難いとお礼の、言えれる。お参りの出来る、日常生活が出来るとするならばです、これこそがお徳を受けていく最高のものだと。しかもそのお徳を受けて行くチャンスというのは、だから何時もなのだということになるのです。始終なのだと。
 ところが私共はです、その何かが起こってくる。信心させて頂いておって、これから先どのようなことが起こってきても、驚いてはならんぞとこう。それをどっこいとこう、見事に受けとめていくという、そういう時に確かに徳を受けるんです。難儀な問題がただおかげになったと。やっとかっと苦しまぎれにお参りをして、苦しい苦しいで、お願しておかげ頂いたというのは、ただもういうならばおかげばっかり。
 けどもそういう例えば問題があった時にです、いうなら雨であった風であったというような時にです、その雨や風をです、有り難くむしろ元気な心で合掌して受けて行くというような生き方そこがです、そういう雨が降る風が吹くという時に、その受け方次第が徳になるのだと。こりゃ私の体験からはっきり申し上げれるですね。私の場合はもうみんなそうです。何かがあったたんべんに、合楽は大きくなっとります。
 問題はその、受け方がまぁある意味で素晴らしかった、と思うんです。それを私は何時も神愛として受けていったわけです。叩かれても、その手にお縋りするようにして、そのことをお礼申し上げれる気持ち。神様がこのような思いを持って私を育てて下さってあるんだという、そのこと自体が神愛として受けていく。そのためには、いわゆる成り行きを大事にして行くという。
 常日頃のいわば信心を、もう本当にめごもう、まぁ私なりにです、させて頂いて。起きてくる全ての事柄をです、成り行きを大切に大切にさせて頂いて、そこから生まれてくる体験がです、あまりにも素晴らしいことになってまいりましたから、もう信心はここに極まった。信心はこれだ。神様を大事にするとか、尊ぶとか言うても、成り行きを尊ばなかったら、神様を尊ぶんじゃないんだと。
 お社の中にござるのが神様だけじゃないのだと。成り行きそのものが、神様のお働きなのだという風に、はっきり皆さんにも、もう言えれるところまで成り行きというものがそのように大切なものであるという事を聞いてもらって来たんですがね。ですから、いわゆる、その「難はみかげ」とか「難あって喜べ」と、その難、何故喜べるかというと、そのまま難儀と感じられる時こそが、お徳を受けるチャンスであるからだと思っておったからです。又事実そうだった。
 ところが、まぁ今日の御理解を頂きますとです、まぁいうならば、難の出ようがない。まぁ分りやすくいうと、私共がそれぞれにめぐりを持っております。家のめぐりがあり、身のめぐりを持っております。そのめぐりが、難儀のもとになっておるのです。そこに、困った事があるから、苦しいことがあるから、決して、そこにぽかっと苦しみが起こるはずは絶対にない。
 苦しまなければならんなら、苦しまなければならない必ず元があるのです。だからそれを巡りの自覚に立つという風に申します。お互いが巡りの深い私だというならば、天地に借金してるということにも、なるわけです。そこで神様が辛抱に辛抱してござるのだけれども、何時までも返済が出来んからおい、もう大抵いい加減で借金払い少しずつでもせにゃいけんぞというのが、お気付けであったり難儀だったりするんです。
 その難儀な事によってです、私共が、いわゆるもう強引に請求されるわけです。皆さんが借金とりにこられた体験を誰でもまぁ一応持っておるでしょう。ある時に払うのはなんでもないけれど、こんきを逼迫しておる時にです、それでも何時何時までに、いくらいくらという風に請求されたらもう本当に、じゅつない思いがいたします。それでも払わにゃ出来んから、やはり無理をしてでもそれを払うていく、それこそ泣きの涙で、それこそついていこうごたる気持ちで借金払いをする。
 おかげでめぐりの、やれ痛や今みかげをよ、という心になれよと。今借金払いが出来ておるんだと思うて、払うていかにゃいけんというわけなの。ですから、今日私が皆さんに分って頂きたい、又私がいおうとしておる事はです、もう催促をされる前にです、支払う、支払うていこうじゃないかというのです。だから、難の出ようがない。為にはまずめぐりの自覚に立たなきゃいけん。(
 みぎひどうに?)例えば要求される、請求されるそれはじゅつない。けれどもこちらがです、ね、その気になって、まぁいうなら始末倹約しておいてです、して少しずつでも請求を受ける前に支払うて行こうという生き方こそがです、私はね何時もまめなのが有り難いのぞ、という事になるのじゃないだろうかとこう思います。いやそれが分らなければそれが出来んのです。痛いのが治ったので、有り難いのではない。
 何時もまめなのが有り難いのぞという事をです、なるほど痛いのが治ったのも有り難い事は、有り難いけれどです、そこから信心が分からせてもろうてです、平穏無事であるという事は、まめであるという事は、もっともっと有り難いことだと気付かせて頂くという事。それが信心だと。ですからもっともっと、有り難いことなのですから、その有り難いというその心が日常生活の上に現れてくる。
 信心修行の上に、いよいよ御礼の信心が出来る。甘木あたりがお徳を受けられた、というのはですね、私はその、難儀が起こったから、それをそのいさぎよう受けていって、お徳を受けられたというのではなくてです、まぁ厳密いうと色々ありましょうけれどもです、もう常平生、いわゆる始終祿を受けておられたと。何時もが、徳を受けるチャンスであると悟っておられたと。
 私はあの、引き揚げて帰った当時でしたが、善導寺の教会にお参りさせて頂いたら、久留米の松本さんという、もと久留米教会の総代をしておられた、その丸善昔は洋品店。あちらがもと総代をしておられました。その方がその石鹸かなんかをその製造されるとの、釜探しに見えとりました。大きな、善導寺酒屋さんが多いから、酒屋が使うような釜の、ああいったところはないだろか、というてその見えとった。
 して先生が、今日はあの、松本さんが見えとるけんで、あんたも商売人じゃから、商売人どうしなにか、ええお話が出来るかもしれん。まぁこっちはいんなさいといわれて、入らせて頂いてから、あの松本さんお付き合いしたことないけどもよく知っておるわけですこちらの方は。向こうの方はまぁ一介の、まぁ信心頂いておる青年ぐらいな事は知られなかったでしょうけれどもね、まぁ色々お話をした。
 もうとにかく非常に商売の名人ですね。
 私共があのまだ、久留米酒屋の番頭にといっておる時分。元の第一銀行のちょっと北側の方で、丸善洋品店、その当時正札の商いを始められた方でもう非常に、そのお得意さんが素晴らしい。高級なお得意さんばかり。もうよい物はあそこに行けと。もうそれこそ、大変繁盛したお店です。今も色々やっとられるようですけれどもね。それで色々商売のその、いわばその売るとか、買うとかというところはですね。
 そこのいうなら商人がまぁ色々研究いたしますけれどもね、あれだけの信用を売るという事はですねそのどういう秘訣があるですかと、いうて私がお尋ねしたんです。したら松本さんいわくですね、商売人がね信用を受けていくという事は、もう第一なんだけども、その信用を受けていくというコツはね、もう日々ですって仰った。いうならば何時もが信用を受けるチャンスに恵まれておるのですとこういわれておる。
 私それを聞いてから、素晴らしいことだと思うたです。何か特別の大売出しでもせなければ、大安売りでもしなければ人が集まらんというのは、信用のない証拠。毎日毎日が、大安売りであり、大売出しのような気持ちでです。いわばお客さん本意の商売をするもんですから、もう松本は間違いのない店だともう、いうなら信用する。それはね、時々じゃなくてから、もう日々がそういう信用を受けるチャンスですよ、という事を私聞いた事があるんですが。
 今日私はこの始終祿という事がです、46節のこの御理解がです。いうなら雨が降るから風が吹くからえらい、また大儀と思うちゃならん。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。だから雨ん降る時だけ風ん吹く時だけ参ってきてから、一つ一徳受けようと言った様なまぁ考え方の人がある。それではなくてむしろお天気の日にです、常平生の時にです、お徳を受ける修行がしっかり出来ておらなければ出来んという事。
 日々がお徳を受けるチャンスだと。始終祿である。愈々今年もこの一月にせまってまいりました。色々とおかげを受けてまいりましたことを思うて、本当にあれもおかげじゃった、これもおかげじゃったとお礼をいよいよ申し上げれる、最後の月にいわば突入したわけです。今年は何を持って、どのような信心を持って、今年を締めくくらせて頂こうか。所謂12月の声を聞いてから、まぁ遅蒔きながらでもです。
 その気持ちにならせて頂いて、せめて12月一月ぐらいは、実の詰まった信心をさせてもらおうという事はです、何時もまめなのが有り難いというような信心。何かが起こっておかげを受けて有り難いのじゃなくて、何時もまめであるという事はもっともっと有り難いことだと気付かせて頂くための信心。または気付かせて頂いての信心。そのために私はめごもう、一つ11ヶ月あれ、まぁ出来なかったけれども。
 最後の一月ひとつ頑張らせてもらおうと言った様なですね、信心を意欲しなければならない月だという風に思うのです。それには今日12月1日の今日です、頂きますこの46節ですそこんところを、合点させてもらってですなるほどそうだなと。痛い苦しい思いをせんでいうならば、こちらからその借金の自覚に立たせて頂いておるならです、こちらから催促されん先にお支払いをさせて頂こうと言う様な私は気持ち。
 それが、日々平穏無事の時に、本当の意味においての、神恩報謝の毎日が出来れる一つおかげを頂きたい。昨夜は、まぁ何時も、月末の、いわゆる月末の日の夜のご祈念に、ひと月のことを心から御礼を申し上げて。そして、いよいよ12月、次の一日を、迎えさせて頂くという意味で夜のご祈念に合わせてそういうお礼を申させてもらいます。段々家族挙げて一月の御礼に参拝させてもらおうという人達が、段々増えてきた。
 昨日も遠く、福岡の嘉郎さん達が家族あげて、久留米の佐田さん達、土居の久富勇さん達一家と。それに夜のご祈念に何時もお参りになる方達、皆ふくめてこのお広前でこう円をかきましてね、まぁ一時間あまり、本当に神様にお礼を申しあげるというかね、本当に一月お礼を、おかげを頂いてきたことを心から心いくまでお礼を申させて頂く、ご祈念をさせて頂いて、まぁ信話会とでも申しましょうかね。
 信心の、まぁお互い有り難いお話をさせて頂いておるんです。まだ知らない方が沢山ありましょう。まあここ三月ぐらいですか、それをやっております。昨日ご祈念それこそ、まぁあれを思い、これを思いいたして、ご祈念をさせて頂いておりますと、心、しみじみと心の底からです、この11月なら11月という月におかげを受けてきたことを、繰り返し繰り返しお礼を申させて頂いておりますと、限りがない。
 お祝詞でも奏上させて頂いておると、もうそれこそ一巻二巻で止めるのは勿体ないごとある。もうそれこそ心いくまでお礼を申させて頂くそういう気持ちを神様に向けさせて頂いとりましたらね、神様から頂くとがね「はばかりながら」という事を頂いた。いうならば、ちっぽけなということなんです。はがかりながらです例えば一月を締めくくった時にです、お礼を申し上げてもお礼を申し上げても足りないほどしのおかげを、しみじみとした思いでお礼を申させて頂いておればですはばかりながらとこう。
 そういうお礼がです今日の御理解を頂いてみて初めて又気が付くのです。日々がこのようでなからなければいけないんだということなんです。常日頃月末だけじゃないのだと。常日頃がこれじゃなからなきゃいけんのだ。まぁそんなことを聞いてもろうてまぁここで、まぁ円をかきながらお話させて頂く時です、今日のはばかりながらというのはあんた達がどう頂くかというてところが、あの皆さんが本当にそうです私共の信心なはばかりながらだと言うてです、嘉郎さんがこんなこと言ってるんです。
 実は先生、今日もね、もう本当にその一月の御礼の締めくくりの日だから、さぁ家族中でお参りをするぞ、というような嬉々としたものというかね、新しい、さぁお礼参拝させてもらうぞというような、もう喜びというものは微塵もございませんでしたち言う。いやそれよりもむしろです、もうどげん思うたっちゃ今日はもうお参りしようごとなかて。何かきつい気がする。
 それでもやはり先月、先先月からあぁしてお参りをさせて頂いておるから、まぁお参りせじゃこてねぐらいな事で、まぁ親子四人連れでお参りをしてきて、ここのお広前につかせて頂いたとたんに、はあ、無精起こさんでよかった、お参りしてよかったというのが、初めて出来ました。もう今日のはばかりながらというのは、先生今日、私のことでしょうというて、嘉郎さんが言っております。
 ですからはばかりながらにでもです、その生き生きとしたものが、私はいいと思うんです。そのはばかり、ですらがなかもんが、ほとんどですからね、いうならば。今日は月の最後の日だから、もう明日お月次祭に参ってから、お礼とお願ば一緒にしようというのではなくてです、今月受けたお礼を今夜させて頂いとかなければ、いうならば、大晦日を大事にさせて頂いておかなければ、元旦のめでたさとか、有り難さというものがないというぐらいな気持ちがね、私は大事だと、信心に。
 それが、なら今日のような御理解が、常日頃分っていきよらんとそれが出来んと私は思うのです。しかもそれがです、はばかりながらではなくて、心の底からです、根のあるもの、いうなら。根と葉が一緒に足ろうておるもの。さぁ一緒にお礼参拝させて頂くぞと、さぁそんなら私も一緒に連れていって下さいというそう生き生きとした、そういう御礼心というものがです。
 を私はつくっていくという所に、言わば祿を愈々増やしていけれるというか、愈々お徳の受けられる信心とはね、そういう信心からだと。ここには根もありゃ葉もあると言う様なおかげになってくる。信心だと思うですお願せんならんからお参りしておるのだという、私は信心ではね、それこそ「難はみかげ」「難あって喜べ」という難がある時には、どうそれを受けさせて頂く稽古が出来ておるとか、しておると思うてまぁそれで受けて行くにいたしましても、それはなら私の過去の信心をいうても、ね、
 確かに私は何かがあった時にそれをね、神愛として受けて成程あの時に、もしお徳という言葉を持って許されるならです、お徳を受けて来たんだろうと私は思うのです。その私が今日気付かせて頂く事は、昨夜から今朝にかけてから前後の事を思うてみ、今日又46節の始終祿という事を頂いて、改めて気付かせて頂く事はです、痛いのが治ったのを勿論有り難い、有り難いのではないと仰るけれども、やはり有り難い。
有り難いけれども、何時もまめであるという事はもっともっと有り難いのだと気付かせて頂いたら、心の底からです、そうだなぁと分らせて頂いたら、の有り難いというものが、日常生活の上に現される。成程これならいうなら借金をおうておる者がです、借金の催促をされる前に、持っていくようなもんですから、はぁあの人にはもういくら貸したっちゃよかといったようなね、信用がつく事は当り前。
 催促しても催促しても払わん。払う時にはもう本当にもうそれこそね、借りる時には恵比寿顔払う時の閻魔顔と言った様に、もうあげな支払いの悪か所にはもう貸さんぞといったようなことになりかねないのじゃないでしょうか。支払いの払い具合がいい。あの人にならいくら貸したっちゃええと言う様な所がです、その人の信用になるようにです、私共が神様から受けるご信用というそのものがお徳であるならばです、そういう信心をさして頂いて、神様のご信用を愈々深めていかなければならん。
 いよいよ徳を受けていかなければならん。なるほど、商売人が、本当に繁盛の秘訣をと、私が問うた時に松本さんがいわれた。日々がチャンスですよという事である。そのくらいに、例えば商売に熱心でありです、あるならば、いやあの店は大丈夫な店だと、信用のある店だと、もう常日頃に信用を受けるための信心が、修行がです、出来ておる。さぁいよいよ大売出しだからという時にバタバタせんでも済む。
 ちゃんと常日頃にそれが出来ておる、という意味のことを松本さんが言われたがです、私は今日はそれを思う。私共が始終ね、祿を増やしていけれる修行というのは普通なんだ。平生の時なんだ。なんでもない時なんだ。雨が降る風が吹くという時ではない、お天気の日なのだ。という事をです、私共は分らせて頂いて、心から例えば分らんに致しましても、理屈の上ではなるほどそうである事が分かるでしょう。
 成程何時もまめなのが有り難いのだなぁ、成程そうだなぁと分るでしょう。けども実感において分らないだけのこと。ですから、それは私は、はばかりながらだとこう思うんです。なるほどそうなのだから、常日頃、せめて一年の締めくくりであるこの12月ひと月ぐらいは、はばかれながらの信心でも、一つさせて頂いていくうちにです、少し根が生えていくようなおかげにもなってくるのじゃないでしょうか。
 せめてはばかれながらでも、御礼の、年末の月としてのふさわしい信心が出来ることになるのじゃないでしょうか。私共が年頭に「より明るく、よりにこやかに」と、まぁその当時は本当に今年はこれで行くぞ、という風に意気込んできたけれど、実際その中身というものを見ると、やっぱたいした事なかった。取り組み続けることが出来なかった。せめて、前と最後だけでもね。
 そのことに本気で取り組ませて頂いて、はばかりながら取り組ませて頂いて、なるほど素晴らしいみ教えであったなと、少しぐらいは分らせて頂いたその、そこんところをです、今年の御礼の締めくくりにさせて頂くようなおかげを頂くために、12月の1日である今日、この46節の御理解を頂いたことを、本当に今日私は、私自身有り難いと思う。常日頃を大事にさせて頂こう。
 しかもその常日頃、平生の時に、お徳を受ける本当の意味においての素晴らしいチャンスがあるのだと。何か苦しい事、悲しい事があった時に一生懸命になって徳を受けるというような考え方を一つ一掃出来るくらいなですね、信心。そういう信心が、私は真の信心という事になるのじゃないでしょうか。苦しい時におかげを受ける徳を受けるという信心ではなくて、常日頃、まめである時、平穏無事である時にです。
 心から神恩報謝の生活が出来る。なるほどこれなら、素晴らしい神様も喜んで下さってのおかげ、又はお徳が、信用がますます増していくこと、まぁ間違いないという事になるわけです。問題は、その実感がなかなかですけれども、はばかりながらでもです、形の上だけにおいてでもです、そこんところを行の上に現して行きたいと思いますね。
   どうぞ。